※ 長文です。しかも科学的な内容ではありませんので、新型コロナウイルスに関する情報を探している方には読むことをオススメしません。あくまで、1人の医師のつぶやき、このブログのタイトル「よしなしごと」として読んでいただければ幸いです。

先週末、訳あって夜の繁華街を少し歩きました。

居酒屋には若者のグループが大勢集まって、狭い店内で大声を上げて楽しんでいました。

私は、これが悪いと言うつもりはないんです。

居酒屋には客がいっぱいいないと困る。

そして酒が入る場で「飲み食べする時以外はマスク着用して話さずに」なんて、少し考えれば絵空事だと分かり切っている。

私も20代なら、もしかしたら同じように騒ぐ1人だったかもしれない。

・・そう思うんですよね・・。



じゃあ、仮にこの店がクラスター化したら、店長は狭い店内に客をいっぱい入れたことを非難されるのか・・。

若い客は騒いだことを非難されるのか・・。



・・何か違う気がする。



かと言って、私がこの状況の店に入って飲み食いすることも、今は考えられない・・。

だったらこれから先、ずっと全面的に外食しないというのか・・。



・・これも何か違う。



「with コロナ」って好きになれない言葉ですが、結局、「何のリスクをどれだけ許容するか」を考え続けることに尽きるんじゃないかなあ、と思うのです。

私は自分の職業柄、今は先述の店に入ることはしません。

でも、低リスクの若者たちに「ハイリスクの方のために自粛を」というのは、もちろんお願いしたいけど、短期間ならまだしも、これから年単位になることを思うと、厳格に自粛してもらうことは現実的ではない、自粛しないことが悪とも言えない、と感じる自分もいます。



ところで、過ぎ去る時間の早さの感覚は、これまで生きてきた時間の長さとの割合で決まるんじゃないか、と私は普段から勝手に考えています(これ、全く科学的ではないのでご注意ください。単に、そう考えるといろいろ処理しやすいなー、と私が思うだけです)。

よく「歳を取ると時間が経つのが早くてね〜」と言うのは、同じ1ヶ月でも、20歳の1ヶ月と40歳の1ヶ月では、生きてきた時間との割合が半分になるから、過ぎ去る感覚が半分くらいに思えるんじゃないかな、と。

年長者から若者を見たときに飽きっぽく感じるのは、同じ1ヶ月でも20歳の過ぎ去る感覚は40歳の倍くらいの長さに感じているからじゃないかな、と。



この考え方に立つと、すでに3ヶ月自粛した20歳の努力は、40歳の6ヶ月、60歳の9ヶ月に匹敵するように思えるわけです。

ましてや、3ヶ月も休校に耐えた子どもたちのがんばりは、我々の何年分に相当するものか・・。

・・そう考えると、若者が騒ぎたい気持ちを責める気にはなりにくい・・。

まして、子どもがはしゃいで遊びたい気持ちをとがめる気には、到底なれません。



もちろん、ハイリスクの方に接する機会の多い我々は、一般の方より厳しいリスク管理をする必要がありますし、実際にそれを続けています。

でも、経済を回しながら感染予防対策も行う、という世の中には、感染拡大させてはいけないはずの「指定感染症」なのに、ある程度の感染拡大を許容するという矛盾がすでにあります。

その中で、どこまで感染のリスクを許容して、どこからの感染リスクを遠ざけるのか、基準はおそらく個々に違うだろうし、違って当たり前だと思います。

これが「with コロナ」の現実ではないかと・・。

だから、自分の基準と違う人に対して、自分の基準を当てはめて怒ったり非難したりすることは、生産的ではないな・・とも思ったりします。



残念ながら、「with コロナ」の間、ハイリスクの方たちにとっては本当に気が気ではない状況が続くと思います。

科学的根拠があるわけではないですが、一部でいわれている仮説のように、新型コロナウイルスが弱毒化して普通の風邪になったりして、安堵できる未来が早くやってくることを祈るばかりです。

そしてそれまでの間、我々には、個々の方の健康状態はもちろん、家族や社会活動の状況や、生命観などの考え方などを踏まえて、一緒にリスクの選択を行っていくための役割が求められていると感じます。

ブログに過去にも何度も書いているように、感染予防対策に100点の答えがあるわけではありませんが、皆さんとともに考え続けていきたい・・と思っているこの頃です。